『雪、水(눈, 물)』 /アンニョンタル(안녕달)

久しぶりにソウル市内の大型書店に出かけて、新刊本などあれこれ見ていたとき、ふと目に留まった1冊があった。『눈, 물』。真ん中のコンマを見落として、「涙」というタイトルかと思って、手に取った。太くて柔らかな鉛筆の線。色鉛筆で彩色した淡い色を使いながら、世の中のけばけばしさを表現している。文字は少ないけれど、なんだか深く浸み入ってくる絵本だ。

これは夢物語か。「冬の夜、女は雪の赤ちゃんを産んだ」と、話がスタートする。主人公は、おかっぱ頭でふくよかな若い女性。「これは私?」と、ふと思う。そうやって、物語の中に引きこまれていく。

生まれたばかりの雪の赤ちゃんは、抱きしめると溶けはじめる。手を握れば、指が溶けてしまう。だから、冷たい床の上に下ろしてやるしかない。
女は自分の温かみが伝わらないように、自分と赤子の間に雪で山を作って、別々に眠りにつく。赤子は雪で作った小さな人形でよく遊び、一人でもよく寝る。その姿は、もしかしたら女の幼いころを投影しているのだろうか。忙しい母はいつも、子を一人家に残して出かけて行った……。

しかし、家の中も平穏なままではない。いつの間にか、緑の草が家に入り込んでいく。ドアの外では騒音を鳴らして、オートバイが通りすぎる。オートバイの撒いていったチラシには、「いつでも冬」という不思議な容器が描かれていた。「これを手にいれなくちゃ」と女は思い立つ。
温かい空気が入ってこないように、家のドアをきっちりと閉じて、女は「いつでも冬」のチラシを握って走りだす。「すぐに帰ってくるからね」と言いのこして。

野原を横切り、町へ。裸足の女はひたすら走る。きらびやかなショーウィンドーや、パラダイスへと誘うプールの看板になど、見向きもせずに。
消費欲に溢れた町には、あちこちに巨大な看板が掛かっている。「今がチャンス」「これを逃すな」「どれでもどうぞ」「持ってけ」「永遠の夢」「あなたのために」などなど、道行く人を呼び込む文句が溢れる中、女はひたすら走り続ける。

「いつでも冬」は、氷を組み立てたかまくらのような形状の容器だ。しかし広告のうたい文句にあった「無料体験イベント」は終了してしまった。
赤いハイヒールの女が店に入り、その容器を一つ買って出て来る。女は悟る。「私には買えない」。お金がない。どうしよう。
ふと我に返ると、別の宣伝文句が目に飛び込んでくる。「これ以上、遅くならないうちに」。結婚、子どもの身長を伸ばすことや教育、不動産投資などなど、「今すぐ、始めよう」という脅し文句が、この世に溢れている。

赤い口紅の女性がふいに女の手を取って、親切そうに言葉を掛けてくる。なにかの勧誘だろうか。ああ、だめだ、だめだ、このままじゃ……。
女は、牛乳配達の仕事を始める。ビル掃除の仕事もする。それでも、なかなかうまくいかない。「いつでも冬」は買えないままだ。
思い余った女は店のショーウィンドーを壊し、「いつでも冬」の箱を盗んで、家を目指す。裸足の足は血まみれだ。町を越え、野原を横切り、ようやくたどり着いた家。しかしドアを開けると、雪の赤ちゃんは溶けてしまっていた。
赤ちゃんが溶けた水を「いつでも冬」の容器の中に入れて、女は容器を抱き、子守唄を歌いながら眠りにつく。「いつでも冬」は、とっても冷たい。

ストーリーをここにすべて紹介してしまったけれど、実はこの本の魅力は絵にあるので、ぜひ絵に触れていただきたいと願う。そして作家の描く世界の中に、ゆっくりと降りていってほしいと思う。300頁に及ぶ本の大部分は、言葉のない絵だけのページなのだ。

検索すると、作者のアンニョン・タルは、すでに日本でも子供向け絵本の邦訳が出ていた。『にんじんようちえん』『すいかのプール』の表紙の絵を見て、私も以前、韓国の書店で手に取ったことがあったことを思い出した。
子ども向けの絵本作家さんが、初めて大人向けに描いた長編絵本がこの作品だという。

再び、思う。裸足で走る女は「私なのだ」と。そして本のタイトルは『雪、水』でもあり、『涙』でもあるのだろう、と。
日常の猥雑さに振り回されそうになる自分。よいしょこらしょと、重い荷物を引きずって歩く自分。人混みの中で、ひとりぼっちになってしまう自分。見境もなく、必死になってしまう自分。なにかを守るために、あるいはなにかを見つけるために、あんなふうに髪ふり乱して走ったことが、私にもあった、と思う。

不思議だけれど、私は何度も繰り返し、ページを開いてしまう。そしてじっと、絵に見入ってしまう。手の平の感触や、雪の冷たさや、表情のない人々や、嘘っぽい看板や、饐えた裏通りの臭いまで、私はすべて知っている。だってこれは、私の話でもあるのだから。

⇒ 書籍の購入はコチラから


 

戸田郁子(とだ・いくこ)

韓国在住の作家・翻訳家。仁川の旧日本租界地に建てられた日本式の木造町屋を再生し「仁川官洞ギャラリー」(http://www.gwandong.co.kr/)を開く。「図書出版土香(トヒャン)」を営み、口承されてきた韓国の民謡を伽倻琴演奏用の楽譜として整理した『ソリの道をさがして』シリーズ、写真集『延辺文化大革命』、資料集『モダン仁川』『80年前の修学旅行』など、文化や歴史に関わる本作りを行っている。
朝日新聞GLOBE「ソウルの書店から」コラムの連載は10年目。著書に『中国朝鮮族を生きる 旧満洲の記憶』(岩波書店)、『悩ましくて愛しいハングル』(講談社+α文庫)、『ふだん着のソウル案内』(晶文社)、翻訳書に『黒山』(金薫箸、クオン)『世界最強の囲碁棋士、曺薫鉉の考え方』(アルク)など多数がある。