『さすらう地』(キム・スム/著、岡裕美/訳、姜信子/解説、新泉社)

スターリン体制下にあった1937年の秋から翌年の春にかけて、日本のスパイになる可能性があるから、あるいは、労働力を埋めるためという理由で、極東の沿海州から中央アジアへ貨車で強制移住させられた朝鮮半島出身者、高麗人(コリョサラム)。この高麗人の強制移住について描かれた小説が『さすらう地』(キム・スム著、岡裕美訳、新泉社)です。「二十世紀の韓国人の苛酷な受難に粘り強く迫った」と評価されて第51回「東仁文学賞」、第37回「楽山金廷漢文学賞」を受賞。物語は、家畜を運ぶ狭い貨車の中で繰り広げられる会話によって進みます。朝鮮国籍だったことも日本国籍だったことも、ロシア臣民だったこともない、あるいは朝鮮国籍だったり、日本国籍だったり、ロシア臣民だったり、まったく定まることのない流浪の民たちは、飢えや寒さへの苦痛、望郷の念、「反逆者」と目されることの恐怖などを切々と語っていきます。人々の表情やしぐさ、貨車内に充満する匂いや暗さ、貨車の揺れまで繊細に描かれていて、臨場感のある会話のひとつひとつが胸を打ちます。姜信子さんによる解説も収録されており、中央アジアの朝鮮人(高麗人)と中央アジアへの理解をさらに深めてくれます。訳者の岡裕美さんからメッセージを頂戴しましたので、ご紹介します。

ロシア南部の沿海州と旧ソ連の中央アジアには、朝鮮半島にルーツを持つ高麗人(コリョサラム)が住んでいます。今からおよそ160年前の1860年代から、農作業に適さない咸鏡道地域に住む人々が新天地を求めてロシアに移住を始め、その数は約17万人に上りました。スターリン体制下の1937年秋、人々は突然の命令によりひとり残さず貨車で約6000キロも離れたカザフスタンに運ばれ、木も育たないという荒野に捨てられます。
『さすらう地』では、家畜を運ぶ貨車に詰め込まれた人々が寒さや飢え、悪臭の中で交わす会話や語りによって、当時の過酷な状況が浮き彫りになります。『ひとり』や『Lの運動靴』などの作品と同様、キム・スムさんが徹底したリサーチをもとに描く高麗人の苦しみが読みながらリアルに胸に迫りました。私自身、留学時代の同級生にカザフスタンやウズベキスタンなど中央アジアから来た高麗人が多く、友人たちのルーツについてもっと詳しく知っていればと思ったことがこの作品を翻訳したきっかけの一つでもあります。
この作品を通じて二度と繰り返されてはならない過去の歴史をたどることで、いまも私たちの周りにいる境界に置かれた人々、「さすらう」人々に思いを寄せるきっかけになることを願っています。(岡裕美)

『さすらう地』(キム・スム/著、岡裕美/訳、姜信子/解説、新泉社)