2月。旧正月の連休が明けて新しい年がスタートし、これからの5年間を担う大統領を決める選挙が迫ってきた。この時期、書店に平積みされているのはもちろん、各候補者に関連する複数の書籍だ。
その中でひときわ目立つ、赤い服の朴槿恵(パク・クネ)元大統領の表紙。『恋しさはだれにでも生まれるものではありません』は、昨12月末に刊行されたとたんに、教保文庫の1月第1週から第4週までの「総合ランキング」で1位を記録し、現在、2月第1週には2位となっている。
正直、「なぜ今、この本が売れるのか」と、疑問がつのる。
『恋しさはだれにでも生まれるものではありません』というタイトルは、獄中の朴元大統領あての手紙の中の一節から採られた。著者は「朴槿恵、大韓民国国民共著」となっている。
2017年3月30日に拘束された朴元大統領あてに送られた何万通もの手紙のうち、129通を選び出し、2017年、18年、19年、2020年に分けて編集した。1通ごとに、朴元大統領からの短いコメントが付けられている。
発行元は、なにかと世間を騒がせるユーチューブチャンネルを持つ「カロセロ研究所」だ。
昨年末に突然発表された「新年特別赦免」で、朴元大統領は出獄した。まるで本書の刊行に合わせたかのようなタイミングだったが、それはきっと偶然だろう。
現在は病気治療のために入院中だが、2月中には退院して、国民の前に姿を現すのではないかとも噂されている。
懲役20年。罰金180億ウォンに追徴金35億ウォン。ソウルの自宅はすでに競売にかけられ、戻る家すらない身の上となった朴元大統領。刑期の大半を残したままの恩赦は唐突で、だれもが驚いた。
以前、文政権下で国務総理(首相)を務めた李洛淵(イ・ナギョン)が「朴槿恵赦免」発言を行い、トブロ民主党内から総スカンを食らったことがあったことを思い出す。
韓国史上初の罷免された大統領は、どうやら今なお、この社会に大きな影響力を持っているらしい。
その彼女の口から、文大統領への感謝の言葉の一つでも引き出せれば、李在明(イ・ジェミョン)候補への票が集まると、トブロ民主党では踏んだのかもしれない。
車いすで病院に移送されるやつれた朴元大統領の姿に、怒りよりも憐れみを感じた人々は、文大統領の「英断」に拍手を送るのかもしれない。
拘束中だった朴元大統領は、これまでも時おりテレビ画面に、その姿が映し出された。そのたびに、私は思った。
栄光をすべて剥奪され、獄に繋がれた心情は、はたしてどんなものかと。いっそ死にたいとは思わないのか。胸の内にあるのは、憤怒、悔恨、それとも諦観か……。
その答えが、本書の中にたっぷりとあった。
p36 大統領のご両親は、この世に類のない強靭な指導力と慈悲の心で、国民を導いて下さいました。そのご恩を、私たちは今も忘れることはできません。
p19 大韓民国の保守、いや全国民が、朴正熙大統領に借りがあります。それなのに嘘の弾劾事態で、娘である大統領にこんなひどい仕打ちをして、その借りはさらに大きくなったのです。
p34 この世は狂っています。正義と法と人権を強調する集団が、一人の人間を魔女狩りし、ハイエナのように群がって、無惨に踏みつけました。わが民族はこれほど残忍だったのか。大統領は歪んでゆく事態を注視し、まっすぐ立て直そうとして、一撃を受けてしまったのではないでしょうか。
p40 わが国の大統領をこのようにしたロウソク勢力は、目覚めた国民の大きな太極旗の風に、すぐに消えるでしょう。その代わりに、朴大統領への正義の大きな火は、赤々と燃え盛るでしょう。
p70 正義と真実は、必ず明らかになるでしょう。在職期間中、だれからも10ウォンたりとも受け取った証拠は出てきませんでした。判決文では形式的に、大統領が当然やるべき職務遂行の過程を述べた後、事実の有無とは関係なしに、有罪という結論を出しました。自由民主主義の大韓民国で、決してあってはならない蛮行であり、人権蹂躙にほかなりません。
p104 何の罪もなく獄につながれた大統領のご苦労を、私たちがどうすれば想像できるでしょうか。
p121 私たちは、国が共産化することを座視しません。北韓を統制することのできる人は、朴大統領だけです。これからは、あなたを私たちが守ります。再び青瓦台に戻り、大韓民国の女性のロールモデルとなってください。あなたは大韓民国国民と、全ての女性の希望です。
p131 けっして倒れてはいけません。諦めてもいけません。食欲がなくても、しっかり食べてください。愛しています。この国の母よ。
p142 2月2日は大統領の誕生日ですね。この国、この民族のために生まれて下さったことを感謝し、祝福します。大統領の安否を気遣い、一日も早い無罪釈放と名誉回復を、指折り数えて待つたくさんの国民を思い、大統領もその日を喜んで下さったら嬉しいです。
p151 今日は3月10日。つらい記憶の歴史となった日です。大韓民国を今も愛していますか。恨みや怒りや失望も深いでしょうが、どうか「そうだ」と答えてください。健康な体と心で、私たちの元に戻ってきて下さい。
(2017年3月10日に朴元大統領の弾劾が成立した)p214 多くの花は、一度咲いたら枯れてしまいます。しかし大統領の真実は、永遠に輝きを失わない太陽のようです。
差出人は、老若男女様々だ。小学生もいれば、軍人、主婦、工場経営者、ベトナム戦争に参戦した兵士、セマウル運動の体験者、アメリカやフランス、日本に住む在外僑胞たちもいる。
ロウソクデモに参加したという青年は、その後、ユーチューブなどを通じて、自分がマスコミに煽動されていたことを悟り、悔いているという。
なるほど、この人たちが「太極旗部隊」となって、今も光化門やソウル市庁前などに集まり、「朴槿恵を再び青瓦台へ」と叫んでいるのか。
「愛しています」「尊敬しています」と繰り返す文面には、なんだか宗教的な祈りにも近いものを感じる。
しかしその人は、侵略者と戦い独房に囚われた独立運動の志士か。十字架に掛けられたイエスなのか。
以下は、この熱き思いに答えた、朴元大統領の言葉だ。
p33 煽動は一時的に人をだまし、それによって彼らの望んだ結果をもたらしもするが、その命は長くはないのです。今は一条の光さえない漆黒のような暗闇の中に一人取り残されているように感じますが、私を支持し、信じてくれる国民がいるから、しっかりと勝ち抜きます。いつか暗闇の中に埋もれていた真実も、その姿を現すことでしょう。その日は必ず来ると信じています。
p51 夢にも思わなかった出来事で、どれほど耐え難い苦難が与えられようとも、自ら恥ずべきことはなく、私利私欲を満たしたこともないのなら、堂々とこの苦難を乗り切ることができると思っています。
p100 今の試練を通じて、我が国がもう一歩成熟し、先進国へと歩むことができるのなら、今私が直面しているこの時間を耐えることができます。自由大韓民国を失わないために、心を一つにするわが国民の思いを、神様は決して無視しないと信じます。
p152 私は今も大韓民国を愛しているし、これからもわが国民を愛していきます。
p181 1965年当時、日韓国交正常化のための日韓基本条約は、韓国の発展のために正しい方向だったのですが、反対もとてもひどいものだったと記憶しています。父も、多くの反対があることを承知していましたが、日本との国交正常化を通じて、日本の強占期に対する賠償を受け取り、これを呼び水として経済を発展させ、5000年間抜け出すことのできなかった貧しさを克服しようという強い信念を持って推進しました。
私は、国家の指導者は国民の多数が反対し、それによってたとえ政権を失ったとしても、国の将来のために必ずややるべきことだと判断したら、やるべきであると考えています。正誤の評価は、後の歴史が行うことです。p201 未来の主役である青少年は、我が国の歴史を正しく学ぶ権利があり、既成世代は彼らに正しい歴史を教える義務があります。正義とは何かを判断し、正しくないことに抵抗することのできる青少年がいるからこそ、我が国の未来が明るいのです。
p202 私は平凡な暮らしとは異なる人生を生きてきました。時に極限の苦痛と痛みを受けましたが、また栄光の時間もありました。時には平凡な暮らしを羨ましく思う時もありました。でも、私に与えられた人生を国民と大韓民国のために生きようという信念で、自身を戒めてきました。
誤解と憶測と謀略の中でも、私の真実を信じ、応援してくださる皆さんのような国民がいらっしゃるからこそ、私はこの試練を耐え忍ぶことができるのです。p236 ふり返ってみれば、私の人生はいつも公的なものでした。大統領の娘として、母が凶弾に倒れてからはファーストレディーとして、国会議員と大統領だった政治家として、すべてが平凡ではありませんでした。それも私が背負ってゆくべき運命なのだと思います。
ああ、この人は「コンジュ二ム(公主様=お姫様)」として生まれ、長じて女王様になったのだ。
我こそが正義であり、真実なのだ。自分に従わぬ者は、悪の勢力だ。愚昧な民を正しい道に導く役割を負っているという信念が、獄中の彼女を支えてきたのだ。
「国家転覆勢力の不正弾劾陰謀」「共産主義従北左派国家転覆勢力」「従北主思派の輩(やから)」といった単語が、次々と登場する。
「セウォル号は単なる交通事故だ」
「伝染病を利用して国民を分裂させ、皆をだまして政権維持に利用している」
女王様を崇め奉る「太極旗部隊」は、高校生ら300人余りが犠牲になった大惨事にも、心を揺るがせたりはしないのだ。
私はなんだか、頭がくらくらしてきた。
この国の正義とはなんなのか。民主化とはいったい、なんだったのか。
気がつけば韓国は、残忍な政治的報復が繰り返される社会になっているではないか。この分裂、闘争、憎しみ合いは、もう治まることはないのだろうか。
実はこの人の存在は、与党にとってだけでなく、保守派政党である「国民の力」の候補者、尹錫悦(ユン・ソギョル)にとっても、脅威にほかならない。尹は朴元大統領を監獄に送った、崔順実(チェ・スンシル)ゲートを捜査した責任者だったから。
大統領選挙が近づいてきた。二人の有力候補者のどちらも「嘘つき」だと、皆がため息交じりにそう話す。せめて嘘が少ない方を選ぼうと、候補者のテレビ討論会を見るのだと言う。いっそ次の大統領は空席にしたらどうか、という意見まで出るほどだ。
「息子リスク」「配偶者リスク」など、内部告発による互いの足の引っ張り合いは泥仕合の様相だが、さらに「朴槿恵リスク」まで登場するのだろうか。
大統領選挙を目前にした今、この本が売れていることの意味を、私は考えている。
戸田郁子(とだ・いくこ)
韓国在住の作家・翻訳家。仁川の旧日本租界地に建てられた日本式の木造町屋を再生し「仁川官洞ギャラリー」(http://www.gwandong.co.kr/)を開く。「図書出版土香(トヒャン)」を営み、口承されてきた韓国の民謡を伽倻琴演奏用の楽譜として整理した『ソリの道をさがして』シリーズ、写真集『延辺文化大革命』、資料集『モダン仁川』『80年前の修学旅行』など、文化や歴史に関わる本作りを行っている。
朝日新聞GLOBE「ソウルの書店から」コラムの連載は10年目。著書に『中国朝鮮族を生きる 旧満洲の記憶』(岩波書店)、『悩ましくて愛しいハングル』(講談社+α文庫)、『ふだん着のソウル案内』(晶文社)、翻訳書に『黒山』(金薫箸、クオン)『世界最強の囲碁棋士、曺薫鉉の考え方』(アルク)など多数がある。