●本書の概略
本書は小説家による初のエッセイ集である。魔法の大釜のように膨大な知識と実践の記憶が詰まっている。幼い頃の友人宅にあった書斎への嫉妬に近い強い憧れ、本の虫さながら図書館通いに没頭した青春時代、「毎日少しずつでも書けばよい」というドラマのセリフに魅入られて会社を辞め、39歳になってようやく作家デビューしたエピソードなどが綴られる。各チャプターで披露される博識ぶり、多趣味ぶりが凄まじい。読み物ではルカーチ、ニーチェ、スティーブン・キングに始まり、夏目漱石、三島由紀夫、美内すずえの作品、音楽ではハチャトリアン、ボブ・ディラン、キング・クリムゾン、クラフトワーク(ドイツの電子音楽グループ)、チック・コリア、映画では『ジョゼと虎と魚たち』などを素材として著者の持論が展開される。これまで触れてきたアートに対する思いと同時に、人々に注ぐ暖かいまなざしも感じられる。人生を成長の旅として描いた『銀河鉄道999』とともに著者の思いは宇宙空間にまで拡がる。そして「永劫回帰」(同じ事象は永遠に繰り返して起きるというニーチェの思想)を通じて母親との再会を願う著者の思いは時間をも超えてゆく。
●目次
プロローグ
1部 私がカザルスの手にふれる時
2部 ルカーチを読む夜
3部 時間を心に焼きつける時
●日本でのアピールポイント
著者は人々を二種類に分ける。ルカーチを読む人と読まない人、スティーブン・キングを読む人と読まない人、という具合だ。ルカーチの言葉は、人間を善として捉えており、人と繋がる力を持つようにさせるという。チェ・ゲバラやマーティン・ルーサー・キングの言葉にもまた同様な力がある。まずは読書案内として本書に登場する作品に触れることをお勧めしたい。趣味についても写真、麻雀、バレー(舞踊)と守備範囲は広い。ガーデニングではそれぞれの花のイメージに合わせた名前を付けて植物を育てるほど、丁寧に時間をかける。一方で行方が分からない昔の恩人に恩返ししたい、という気持ちでモザンビークの子どもを養女にしている。また、捨てるゴミの中身こそが人生を映し出す鏡であると環境問題にも触れ、社会に繋がる行動の記録という一面も見せる。最近何を見ても新鮮さを感じず意欲も無くなり、自分の「老い」を感じるという著者は、ベテランのロックバンドの新曲を聴いて勇気づけられたという。こうした著者の生き方は日本の中高年にとっても魅力となり、触発されるきっかけにもなることだろう。また「癒し」や人との共感を求めるなら、自己啓発本を買うよりも、本書に登場する様々なアート作品を体験するように著者自らが勧めている点も興味深い。
(作成:前田田鶴子)