●本書の概略
「私の体とセクシュアリティについて話そうと思います」こんな書き出しで始まる本書は三章構成の独白形式の小説だ。
第一章の主人公は、1983年生まれの「私」。哀れなくらい痩せた「私」は、体のせいで小学校でいじめに遭う。中学校では、なかなか生理が来ない自分の体に不安を感じ、大学時代は、パッド入りのブラジャーで胸を大きく見せたりもする。恋人からセックスを強要された「私」は、自分の体を他人のために使うことに強い拒否感を感じ始める。社会人となり、価値観が近い男性と結婚するが、夫からは週2回のセックス、婚家からは子づくりを暗に要求され、離婚を決意する。「離婚した女の体でどうやって暮らしていくの?」と離婚に反対する実母。「母さん、私は体じゃない、ただ私なだけ」
第二章は、1959年生まれ。「私」の母、ミボクの独白。田舎で生まれ育ち、すらりとした美しい体を持つミボクは、それが故に担任教師から性的な目を向けられる。女は教育を受ける必要はないと断言する父親に反発して家出し、ソウルでは縫製工場の低賃金労働から抜け出そうとするが、騙されて水商売に売られてしまう。同じ境遇の女たちと姉妹のように支え合って過ごすものの、病気になり、連れ戻しに来た父親の勧めで見合い結婚、二人の娘をもうけた。両親にも娘たちにも水商売の過去を語れないミボクは、離婚を決意した娘の行く末を心配する。
第三章は、離婚後の「私」が、料理教室で親しくなった二人の女性、ソヨンとヨンソクについて語る。目前に控えた結婚生活に不安を感じるソヨン、男性とのセックスに失望しながらも、自分の体と心は、他人に喜びを与える義務があると考えるヨンソク。同世代の女性の異なった認識を同時に描くことで、「自分の体は誰のものなのか」を問いかける。
●目次
本編
作品解説(ソヌ・ウンソル)
作家のことば
●日本でのアピールポイント
「私の体は、ただ自分の体なだけ。誰かのために使いたくない」そんな主人公の願いは、至極当然のように見える。しかし、現代社会では今だに、このような当然の願いは社会の周縁に追いやられている。
本書で描かれる1983年生まれの娘と1959年生まれの母の道程は、『82年生まれ、キム・ジヨン』(2018 チョ・ナムジュ著 筑摩書房)と重なる。チョ・ナムジュが、ジェンダー不平等を社会問題として浮かび上がらせたように、イ・ソスは「体」をめぐるセクシュアリティの問題に切り込んだ。母娘の道程を通じて読者は、自分の人格と無関係に「体」が性的な視線にさらされ、セックスや出産を強要され、時には商品として扱われるという社会問題を突きつけられる。しかし、イ・ソスの視線はそこで止まらない。三章で描かれた同時代の女性の異なった認識を通じて「自分の体は誰のものなのか」という問いかけを鮮明に描き出している。
アメリカでは2022年6月に最高裁が中絶を違憲とする判決を下し、49年間続いた「リプロダクティブ・ライツ」(自分の体に関することを自分で決められる権利)が覆された。日本でも韓国でも、自分の体に関する自己決定権が守られているとは言い難い状況だ。男女を問わず性被害が後を絶たず、「性に関わる問題はプライベートなもの」との先入観も相まって、議論される場面も限られている。このような中、韓国で本書が若い世代が手に取りやすい「現代文学PINシリーズ」として発刊されていることも意義深い。
インタビューで「文学の力を借りて伝えなければいけない、誰かの声があることをいつも念頭に置いています」と述べる作家イ・ソス。セクシュアリティと「体」の問題を取り上げた本書をはじめ、日本での翻訳が待たれる作家の一人だ。
(作成:中村晶子)