●本書の概略
宇宙は137億年、地球は45億年。「それに比べれば、人間の一生は青い洗剤ひとさじが水に溶けていく時間にすぎないんだよ」。そんな「ひとさじの時間」が教えてくれる平凡な人々の「人間らしさ」をAIロボットの視線から描く長編小説。
人々がささやかな暮らしを営んでいる平凡で小さな町。中年男性ミョンジョンは、数年前に妻を亡くして以来、この町でクリーニング店を経営している。ある日、外国暮らしの一人息子が飛行機事故に遭ったことを知る。遺体すら見つからず悶々とした日々を過ごしていると、突然送り主の欄に息子の名前が書かれた巨大な宅配便が届いた。中に入っていたのは17歳の少年の姿をしたAIロボット。ミョンジョンはロボットに「ウンギョル」と名付け、奇妙な同居生活が始まる。店を手伝うことになったウンギョルは、母親と二人暮らしの英語講師セジュ、近所の小学生シホとジュンギョをはじめ、クリーニング店を訪れる人々との関係を深めていく。人間の行動や感情を学習し、情報を人工知能に記憶していくのだ。統計データで解析できない「人間らしさ」に戸惑いながらも、ウンギョルは次第に人々の日常に溶け込んでいった。
歳月が流れ、セジュは結婚して町を後にし、シホとジュンギョは家族や社会と葛藤しながら大人に成長した。ミョンジョンは老いを感じ始めている。そんな人々の変化を、少年の姿のままで見守るウンギョル。倒産したメーカーの試作品だったウンギョルも、部品の交換やメンテナンスが受けられず、あちこち故障が目立って来ていた。そして遂にミョンジョンとウンギョルの別れの時が訪れる。
●目次
ひとさじの時間
作家のことば
●日本でのアピールポイント
本書は「ノワール×おばあちゃん?」と日本でも大きな話題を呼んだ『破果』(2022岩波書店)の著者で、常に新しいジャンルに挑戦し続けている作家ク・ビョンモが2016年に発表した長編小説。
『破果』は2013年に韓国で出版、当初はそれほど大きな話題にならなかったが、韓国フェミニズムの勃興の中、再評価を受け2018年に改訂版が刊行された。(参考:小山内園子氏訳者あとがき)
『ひとさじの時間』もまた、出版から7年が経過した作品だ。しかし、生成AI「チャットGTP」が2022年に公開され、世界に衝撃を与えた今だからこそ、本書に描かれた世界が一層リアリティを増している。入力されたデータを学習し、新しいデータを自ら生成する人工知能を前にして、人間にしかできない領域、「人間らしさ」への関心が高まっているからだ。本書の主人公ウンギョルは、出会った人々の行動や感情を学習する人工知能を持ったロボットだ。人間の行動に対するウンギョルの問いや、人々とウンギョルとの会話を通じて、登場人物も、読者も、当たり前に思っていた「人間らしさ」の定義の曖昧さを思い知る。
そうかと言って、ウンギョルは、人間らしさを浮き彫りにするだけの「媒介者」ではない。初めて鏡に映った自分の姿を見た時の微笑み、シホの涙で鼓動が速まる人工心臓、そして、彼女が預けた洗濯物のポケットに、ほのかな想いを込めて種子を入れておく……随所に描写されたウンギョルの「感情」は学習により生成された行動なのか、それとも人工知能が自ら意思を持ったのか。本書が描く世界は近未来のフィクションではなく、もはや現実なのだ。
(作成:中村晶子)