●本書の概略
「モーメント・アーケード」(廣岡孝弥訳/クオン)のファン・モガが送る、初の長編小説。
チェ・ジンリは1990年生まれの高校生。母のイヨンはジンリが生まれた日に亡くなってしまい、父のピルリムとふたりで暮らしている。ピルリムはノーベル賞を夢みる研究者だったが、現在は娘の名前を冠した「ジンリベーカリー」を営んでいる。
高校2年生の始業式の日、遅刻しそうになったジンリが走っていると、突然地震のような揺れを感じ、経験したことのない記憶が走馬灯のように駆け巡っていった。教室に入ると普段とは違う空気が漂っていた。同級生の男子学生たちが女子学生の存在を忘れてしまっていたのだ。恋人のフヌさえもジンリの存在を忘れてしまっていたが、友人のヘラとイェジュン、女子学生たちには以前の記憶が残っていた。しかしイェジュンを皮切りに、女子学生たち、ついにはヘラまでいなくなってしまった。ジンリは友人たちを捜すなかで、今いる世界が、父ピルリムが製薬会社の社長となって作りあげた“もうひとつの世界”であることを知る。ジンリは消えてしまった友人たちを助けるために“もうひとつの世界”に生きる両親に助けを求め、胎児の性別が女の子の時にだけ作用する中絶薬の開発をやめるように頼んだ。ジンリの訴えが届き、ピルリムが中絶薬の開発をやめると、元の世界も友人たちも戻ってきた。ジンリはこの先いかなる問題が生じても、自分の手で世界を作っていくことを決意する。
1990年、韓国では「庚午生まれの女の子は縁起が悪い」という俗説が広まり、お腹の子の性別が女の子であると分かると中絶するというケースが多くあった。その結果、新生児の女児100人に対して男児が116.5人という歴代で最も偏りのある男女比となった。本書は“1990年に生まれてこられなかった女の子たち”に向けて書かれている。
●目次
1部 1990年生まれ チェ・ジンリ
1990年、お母さんと私の特別な年
新たな記憶
悪い変化
ふたつの世界
2度目のチャンス
集団失踪
ヘラ
消された存在
消えた体
侵奪
2部 また巡り会えた世界
娘の名前
505 505 505 505……
私たちという名前
すべての瞬間
イーストエックス
消えたけど消滅しないもの
女児を好まない思想
一度もしたことがないこと
恋しかった風景
ふたり
エピローグ
●日本でのアピールポイント
ジャンルはSF小説であるが、90年代に実際にあった人工妊娠中絶を題材に書かれており、歌手のピョン・ジンソプやポケベルなど実在する人物や時代を表すアイテムが登場するため、ノンフィクションのようにも感じられる作品となっている。
「フェミニズム小説だ」という韓国の読者のレビューも見られるが、筆者が後書きにも書いているように、弱い立場になった時に味わう「透明人間になった気分」に共感する読者も多いはずだ。
2022年6月末、アメリカの連邦最高裁判所が人工妊娠中絶をめぐり「中絶は憲法で認められた女性の権利」だとした1973年の判決を覆した。そんなタイミングだからこそ、本書をとおして人工妊娠中絶に関しても、改めて考えるきっかけになるのではないかと考える。
(作成:德田晴子)