釜山の文学館<中>「李周洪文学館」(韓国通信)

先月は小説家の金廷漢の文学館「楽山文学館」をご紹介しましたが、今月は李周洪(号は向破)の生涯を文学館の資料などから振り返ってみます。彼は1906年、慶尚南道陜川郡の小農の長男として生まれました。書堂(私塾)や陜川公立普通学校(小学校)に通いながら漢学や新学問(西洋の学問)も学んだ彼は、早くから同年代の少年たちと『삼우(三友)』や『형제(兄弟)』などの回覧雑誌を作り、文学の夢を膨らませます。卒業後、書堂で漢学を学んでいた13歳当時、三・一独立運動が起こります。その様相を見て国の未来は新しい文物や新学問にあると考えますが、家庭の経済状況から進学は難しく、悩んだ末、14歳で単身ソウルに上京。ガムや仁丹を売り新聞配達をしながら正規中学への進学の道を模索しますが、実現しませんでした。
1924年、朝鮮より西洋の新しい文物を受け入れていると考えて、日本に渡ります。昼は肉体労働をし、夜は東京の正則英語学校(現・正則学園高等学校)で英語を学び、翌年には童話『뱀새끼의 무도(ヘビの子の舞踏)』を母国の児童雑誌『신소년(新少年)』に発表しました。また、同胞の子どもたちが母国語を失っていく実情を目の当たりにし、28年に知人らと広島で槿英学院を設立。ハングルや朝鮮の歴史を教え、演劇公演を通して民族意識を高めますが、そのことで警察から追放命令を受け、翌年帰国することとなりました。
1929年、ソウルに戻った李周洪は『新少年』の編集を担当し、童謡や童話、童劇、表紙画、カット、挿絵、漫画など多彩な才能を発揮します。朝鮮プロレタリア芸術同盟(KAPF)の児童文学機関誌『별나라(星の世界)』の編集にも加わりました。さらに小説や詩、戯曲、シナリオなどを雑誌に発表します。短編小説『가난과 사랑(貧しさと愛)』が朝鮮日報の新春文芸に選外佳作として入選、同じく短編『결혼전날(結婚前日)』が雑誌『여성지우(女性之友)』に当選し、小説家としてもデビューします。その後、プロレタリア童謡集『불별(プルピョル)』『농민소설집(農民小説集)』、総合文芸誌『풍림(風林)』、雑誌『영화・연극(映画・演劇)』『신세기(新世紀)』などの発刊や編集も担いました。
1940年代は経済的に困窮し、漫画や出版美術で生計を立てていました。当時、日本の警察から要注意人物とされており、45年春に逮捕、収監され、植民地からの解放を迎えた翌日に釈放されます。解放後は中学校の教師として働きつつ、演劇こそが新しい民族国家建設のためのもっとも効果的な手段になるとの思いから、戯曲の創作や演出をおこないます。歴史の教科書『초등국사(初等国史)』も発刊しました。
47年には釜山に居を移し、東莱中学校(現・東莱高校)の教師や水産大学(現・釜慶大学)の教授を務めながら、演劇運動や文学の裾野を広げることに尽力します。彼の創作は、児童文学、詩、小説、戯曲、評論、シナリオ、随筆、中国古典の翻訳など広範囲にわたり、絵画や書芸にまで才能を発揮しました。釜山児童文学会の創立も主導しました。
彼が66年に創刊した文芸誌『문학시대(文学時代)』は、ソウルと釜山の文筆家をつなぐ架け橋の役割を果たしました。詩人・朴木月(パク・モクウォル)や小説家・鄭飛石(チョン・ビソク)といった大家の作品を掲載したり、優れた文筆家を招いて文学講演や直筆展示会を開いたりしました。その後、72年に水産大学の定年を迎えるまで意欲的に創作活動を続け、87年に永眠しました。彼が釜山で創作活動をしたのは40年間、日本とソウルでの活動を合わせると60年に及びます。約300編の小説や童話をはじめ数多くの著作を残し、大韓民国文化勲章、大韓民国文学賞、大韓民国芸術賞、3・1文学賞などを受賞しました。
2002年に教え子たちが李周洪文化財団を設立。彼が1971年から亡くなるまで暮らした釜山市東莱区温泉洞の家を買い取って改築し、2004年に李周洪文学館をオープン。その後、17年に現在の場所に新築移転しました。文学館には李周洪の所蔵図書や書画、愛用の品などが多数展示されています。現在は新型コロナ感染拡大防止の観点から休館中となっていますが、ホームページ上の「オンライン展示場」で彼の描いた単行本や雑誌の表紙画などを見ることができます。文学館周辺の「向破 李周洪 文学通り」は、路面に童話のタイトルや発表年が描かれ、作品の一節を記した万年筆のオブジェや電話ボックス型の子ども用図書館があります。(文・写真/牧野美加)

李周洪文学館
釜山市東莱区金剛路61
051-552-1020/552-0801
利用時間:10~17時
休館日:月曜日、日曜日、祝日(*新型コロナ感染予防のため当面休館)
入館料:無料
ホームページ https://leejuhong.com