『Lの運動靴』(キム・スム/著、中野宣子/訳、アストラハウス)

声なき人の声を繊細に掬い取り、緻密に語ることに定評のある作家キム・スム。『ひとり』(岡裕美訳、三一書房)以来、邦訳2冊目となる『Lの運動靴』(キム・スム/著、中野宣子/訳、アストラハウス)が出版されました。Lの運動靴を修復するように依頼が持ち込まれた美術修復家。遺物でも芸術作品でもないLの運動靴を修復することにどんな意味があるのか、もう片方はどうなったのだろうか、なぜ自分が修復しなければいけないのか。ぼろぼろになって「死亡宣告」がくだされたLの運動靴を前にして美術修復家は逡巡します。この逡巡の様子が、実在する美術作品の修復作業を背景に描かれるのですが、修復家は悩むうちに、自分が修復しなければならないものがLの運動靴そのものではなく、別のものであることに気づいていきます。1987年6月民主抗争の当日のLの様子、現場の様子、Lの母の告白などがありのまま描かれている場面には、胸がしめつけられます。さまざまな色の糸で繊細に仕立てられたタペストリーを目の当たりにしているような物語です。訳者の中野宣子さんからメッセージを頂戴しましたので、ご紹介します。

タイトルのLとは、1987年6月民主抗争の折に、警官の発砲した催涙弾に撃たれて倒れ、それが原因で死亡した延世大学校学生・李韓烈(イ・ハンニョル)のこと。本書は、その彼が当時履いていた運動靴の片方を、約28年を経て修復する人びとの物語で、その靴を修復する作業過程を実話をもとに丁寧にたどりながら、修復家とその周辺の人たちの心の動きを繊細に描いている。
そんな話のなかのひとつに、李韓烈の同級生から届いたメールがある。そのメールによれば、李韓烈が履いていた運動靴はその頃大量に出回っていた型のもので、学生は誰もがその運動靴を履いていたとのこと。ちょうどその同じ時期に訳者のわたし自身も語学留学を始めていて、李韓烈が通っていた延世大学校から歩いて10分とかからない下宿に住んでいた。その同じ下宿にいた学生たちの運動靴がまた、李韓烈の履いていた運動靴と同じものだったかと思うと、わたしにとってもそれは感慨深い。そんな運動靴を修復し保存するというのは、L本人のことだけでなく、その時代に生きていたすべての人たちの生の記憶に繋がっているのだ。
本書では、この〈記憶〉という観点から見て、韓国の歴史上重要なこと、日本軍「慰安婦」問題、済州島四・三事件、セウォル号沈没事件など、人びとの心に大きな傷を残した事件などにも触れながら、歴史を記録し記憶することの意味を問い、その為に捧げられた一つ一つの行為の大切さが丁寧に描かれている。
またその中で、マーク・クインやマルセル・デュシャン、ヨーゼフ・ボイスといった何人かのアーティストとその作品についても語られていて、アートに関心のある人たちにとっても興味深く読めると思う。それに加えて、これは翻訳に苦心したところなのだが、著者独特の不思議な文体が醸す雰囲気をも味わっていただけたなら幸いである。(中野宣子)

「聴いて、読んで、楽しむ★K-BOOKらじお」第2回目のゲストは、『Lの運動靴』の担当編集者、和田千春さん。本作品に出合ったときの印象や魅力を存分に語ってくださいました。ぜひご視聴ください。YouTube Spotify

『Lの運動靴』(キム・スム/著、中野宣子/訳、アストラハウス)