●本書の概略
他者の苦痛に限りなく近づきながら、その心の深淵を繊細に描き出した作品で多くの文学賞を受賞してきたチョン・ヨンジュン。長編4作目となる本書は、虐待されて育った人の終わりのない苦しみを、緻密なミステリー仕立ての物語に描き切った力作だ。
愛ゆえのしつけを主張して重い刑罰を免れ、早々に出所して虐待を繰り返す親たち。厳罰化を求める協会が抗議の声を上げる中、児童虐待を告発する番組の放送作家で、自らも母から虐待された経験を持つヒジンは、出所した親たちの失踪を知って「私的制裁」を疑う。ある日、失踪したアン牧師の怪しげな聖書を彼の娘から託されたヒジンは、牧師に恨みを抱く活動家キム・ミンスの調査を始めるが、それを協会員のソンギとキジョンが妨害してきた。ヒジンの母親の自殺未遂事件まで持ち出して脅迫する執拗さに、彼らこそ真犯人と確信したヒジンは、恐怖を抱きながらも、引き寄せられるように彼らの世界に入り込んでいく。
かつてキジョンが育った養護施設を支援していたソンギ。自身も生涯、母からの虐待の記憶に苛まれてきた。癌で死期が迫った今、似た経験を持つヒジンを信頼して、死を恐れない牧師の心に苦痛を与えてほしいと依頼する。倫理観に苦しみつつ監禁部屋に入ったヒジンは、虐待を聖書の言葉で正当化しようとする牧師に激しい怒りを覚え、その思想を論破して、牧師の聖書に火をつけて部屋を出る。ところがそこにキジョンが現れて、秘密を知るヒジンの口を封じようと襲いかかってきた。教え子を殺人犯にしたくないソンギは、すんでのところでヒジンを逃がし、キジョンと共に姿を消す。その後警察に保護されたヒジンは、牧師の死を知って驚く。死因は煙による窒息死だった。
ソンギの話題が世間を騒がす中、ヒジンは病院で寝たきりの母に事件の詳細を話して聞かせる。文字盤を介して母の言葉を読み取ったヒジンは、母の隣に横になり、静かな眠りに落ちていった。
●目次
1部 炎と氷
2部 罠
3部 問いかけ
作家のことば
●日本でのアピールポイント
近年、日本でも多くの作家が重要なテーマとして取り上げている「児童虐待」に、正面から向き合った作品だ。物語はヒジンと他の登場人物との会話を中心に展開する。そのリアルな言葉に引き込まれ、一気に読んだという読者が多い。特に、ヒジンと共に番組制作をするプロデューサーの言葉には、視聴率至上主義に陥った人の人間臭さがよく表現されており、暗く異常な雰囲気が漂う内容に、ある種の明るさと現実感をもたらしている。
一方、ヒジンとソンギの言葉から浮かび上がるのは、母の理不尽な言葉に心をすり減らし、暗い衝動に追い込まれていく少女の姿と、どんなに傷つけられ、苦しめられても母を愛さずにいられない孤独な少年の姿だ。そして彼らの現実は、虐待を受けた子どもの苦しみがいかに固有の複雑なものであるかを伝えている。
著者は、私的制裁をするしかなかった人の悲劇性を描き出すことで「人とは何か」「愛とは何か」を問うたという。その問いは、ヒジンやソンギの言葉とともに読む人の心に刻まれ、折に触れて頭をもたげることになるだろう。聖書と虐待を結びつけ、独特の雰囲気のなかで展開する物語を、ぜひ日本の人々にも読んでもらいたい。
(作成:大窪千登勢)

