●本書の概略
60歳になった俳優のイ・マチは、建て替えとなったマンション「アパルトマン」の60階に引っ越してから、幻聴や幻覚に悩まされていた。その部屋は全てを失いつつあった彼女が、8歳の時に失踪した息子の帰りを待つために持ち続けた唯一のものだった。
撮影現場で台詞を思い出せず、アルツハイマーの前段階と診断されていたイ・マチは、ある夜、自分の部屋で幽霊を見る。駆け込むようにして訪れた新しい病院での治療は、仮想現実プログラムで構築された「アパルトマン」の中で、管理人・ノアとともに過去の彼女自身と向き合う先鋭的なVR治療だった。
父親の不在、姉の残酷な死、母親からの虐待、借金に追われた結婚生活、自分を蝕んでいく子育て、そして息子の失踪。絶え間ない苦しみの中で、ただ生き延びることだけを夢見て生きてきたイ・マチが、「アパルトマン」の各階で確かにあった過去に出会い直していく作業。その全てを終えようとする彼女を人生の最後へと導いたのは、失踪した息子だった。60階の部屋にいた幽霊として、「アパルトマン」の管理人・ノアとして、イ・マチが最後に出会った海を愛するサーファーとして、彼は彼女のそばに居続けたのだった。
いくつもの波の中をもがき続けた人生の最終段階で、やっと平穏な日々を手に入れたイ・マチは、アルツハイマーという最後の大波の中で死を迎えたとき、永遠の波の中でついに自由になった。
●目次
3月のマチ
作家の言葉
●日本でのアピールポイント
VR治療はすでに様々な医療分野で研究がされているようだが、まだ近未来的な印象もある。一方で家族の問題や自分の人生と子育てのバランス、そして老いという現実的な題材が、端的にかつ鮮烈に文章を重ねていく作風とマッチして、読者を惹き付ける。本作は、韓国国内では特に30~40代の女性からの評価が高いが、10代・50代の読者も少なくない。主人公である60歳のイ・マチとは育った時代が異なるとしても、過去の自分の姿を積み重ねて現在の主人公が出来上がっていくような構成により、日本でも幅広い層の読者の心に刺さり、支持されるだろう。
(作成:猪倉蒔)

