●本書の概略
作家であり、フランス語翻訳家であるシン・ユジンのエッセイ集。タイトル『傷のない季節』の「傷のない」とは、初めから傷のないまっさらな状態を指しているのではない。「磨り減らないようにまめに手入れをして、どうしようもない傷と傷跡は模様として受け入れること」という記述は、フランスの古い家を守るための方法について述べたものだが、傷との向き合い方を喩えた表現のようにも思える。パリ留学時代の夢と挫折、言葉を移すこと(翻訳)と文章を書くことについての思い、家族や故郷の人々との関わりや、フランス人のパートナーと愛犬との日々、新しくオープンしたカフェ「ル・ムーラン」についてなど、「私」をとりまく人々や自然について繊細な観察眼を通して綴られている。
●目次
はじめに 季節の挨拶
1 私の季節が流れゆけば
2 あなたと私が積み重ねる今
3 再び巡りくる季節の中で
●日本でのアピールポイント
1.傷ついた経験からの回復
「外国人にとって言語は権力」であると感じていたパリでの日々。演劇という夢を諦め、フランスの片田舎で挫折と無気力感にさいなまれた日々。大切なものを失った深い悲しみの経験。幼少期、祖母から「不細工だ」と言われ続けた過去。「粉々に砕けても、すっかり駄目にはならない覚悟で、傷ついても病んで死んだりしない気持ちで、これから先も貧しくならない希望を持って」作者は記憶を辿りながら、様々な傷の経験とそこからの回復について書き記しています。傷からの回復というテーマは、国境を超えた普遍的なテーマであり、日本の読者にも心の癒しをもたらすことでしょう。
2.日本に関連して
筆者は翻訳にあたり疑問が生じると『エクソフェニー 母語の外へ出る旅』(多和田葉子、岩波書店、2012年)を紐解くといいます。「言語にも身体がある」という文章に濃い線を引き、繰り返し読んでいると述べています。「母語の外」に関心のある人や、多和田葉子氏の作品に共感する人にぜひお薦めしたい作品です。
また、日本人が読むならば、ということでピックアップすると、作品後半に全羅北道の春甫という小さな町について書かれた箇所が登場します。日本による植民地時代、春甫で農場を営んでいた日本人がここから群山を経由して日本に穀物を送っていたそうです。作者は「日本の農家により労働力を搾取されて食料を奪われた韓国人たちの話(中略)、私はその歴史の前に立ち、できることなら春甫の傷を受け止めて、書き記したかった」「そうすれば春甫の声を取り戻せるから」と述べています。作品後半に突如として日本による植民地時代の話が出てくることにドキッとさせられますが、歴史の傷を癒すことと個人の傷を癒すことの繋がりに気づかされる一節といえます。
3.美しい季節の表現
作品全編に韓国やフランスの季節の風景が描写されています。絵画的な表現が美しく、印象的です。冒頭、「季節の挨拶」として読者にこう語りかけます。「手紙が届く場所に私が伝えたいのは私の持っている最も美しいもの。つまり、今の季節です。この文章を書いている瞬間にもあなたに季節の挨拶を伝えたい。」として静かな冬の雪について語ります。作者の眼はあらゆるものや人との関わりの中に「美しさ、驚異、恐れ、真実」を見出します。作者が伝えたいと語る季節の挨拶は、日本でも受け入れられる美しさを備えています。
(作成:寺澤春子)