●本書の概略
2016年チャンビ新人小説賞を受賞したイ・ジュヘの長編デビュー作。出版社チャンビの中編小説シリーズ“小説Q”の8作目として出版された。近年の韓国小説で扱われることの多い家父長制と介護問題、そしてフェミニズムというテーマを、義父の介護をすることになった嫁の目線から見た日々の出来事を通して淡々と、かつ力強い文体で綴っていく。家父長制に傷ついた女性たちに向けて新しい連帯感を与えてくれる希望にあふれた一冊。
記録的な猛暑が続いたある夏、「私」と夫のセジンは胆道がんを患って入院した義父の看病を交替で見ていた。子どものいない共働き夫婦だったが、お互い仕事を持ちながらの看病生活のため夫婦の負担が限界に近付いたとき、二人は専門の介護士を雇うことを決める。紹介所からやってきた女性ファン・ヨンオクは手際よく仕事をこなすプロで「私」も次第に彼女を頼るようになっていく。だが、義父に“せん妄”症状が現れ始めてから全ての歯車が狂い始める。ロマンスグレーの素敵な紳士で嫁の「私」を実の娘のようにかわいがってくれた義父だったが、“せん妄”状態に陥ると一転し、暴力をふるい暴言を放つようになる。男手ひとつで育てた息子を盗んだ泥棒女だと「私」を罵り、それを見た夫はただ傍観しているだけだった。やがて義父は亡くなり、葬儀に夫側の親戚が集まったが、彼らは同居しなかった嫁のせいで早死にしたと「私」を責めるのだった。その時から「私」の中で何かが変わる。「私」は離婚を決意し、夫婦の家を整理して得たお金で北海道にひとり旅立つ。そして、どこかの映画で見た場面を思い出し、小樽から絵はがきを出す。「ヨンオクさん、朝、ちゃんと起きれていますか?」とひと言だけ添えて。
●目次
プラム
解説:「完全なる他人」(カン・ギョンソク)
作家の言葉
●日本でのアピールポイント
本作の主人公の職業は翻訳家で、フェミニストとしても有名なアメリカの詩人であるアドリエンヌ・リッチのエッセイ集の翻訳者後書きとして書かれたという形式を取っており、エッセイに登場するアドリエンヌ・リッチとエリザベス・ビショップの短いエピソードと翻訳の苦労話から小説はスタートする。著者のイ・ジュヘ自身がリッチのエッセイ集『私たちの死者が目覚める時』を翻訳した直後に執筆した小説で、共通の喪失体験を持つリッチとビショップの関係から主人公と介護士の心のつながりへとストーリーを紡いでいく。前半では些細な日常の出来事を「私」目線で静かに綴りながら、後半ではその平穏な幸せがあっけなく崩れていく様子がドラマティックに書かれ、エンディングまで一気に引き込まれていく。フェミニズムからクィアへと深化を遂げてきた韓国小説の新しい流れを代表する作品で、アドリエンヌ・リッチが提唱したレズビアン連続体(女性同士の非性的な絆)やシスターフッドという概念を韓国の実社会に置き換えて小説化した作品ともいえるだろう。岩井俊二の『Love Letter』、イム・デヒョン『ユニへ』といった映画を見た人にはぜひオススメしたい小説だ。2020年本屋大賞翻訳小説部門を受賞した『アーモンド』の出版社であることも付け加えたい。
作成:大森美紀