●本書の概略
2016年、朴槿恵政権が作り上げた膨大なブラックリストの存在が明らかになった。リスト自体は李明博政権時から存在していたが、朴政権では342団体、8931名もの文化芸能関係者に及ぶという深刻な問題であった。朴政権下、当事者といえる元文化省団体に従事していた2名の著者が、当時の状況を自戒を込めて振り返り、韓国の憲法で述べられた「表現の自由」の意味の解釈を通して、国と芸術との関係がこれからどうあるべきか、述べている。
●目次
プロローグ:なぜブラックリストを忘れてはならないのか
1部:ブラックリストの記憶
芸術文化にとっての行政/ブラックリストが動いた/不義の時代、生き残るための悲しみ/私たちはなぜ抵抗できなかったか/誰かがエルンスト・ヤニングにならなければ
2部:国家と文化、民主主義文化の管理と普遍的人権/文化と民主主義
文化国家への見果てぬ夢/憲法が想う文化/ケインズの名言、支援はしても干渉はするな/
3部:自由を目指す旅
我らの芸術文化法/メフィストは表現の自由を楽しめるか/検閲と闘う歴史/スクリーンクォーター制度**を守れ/都羅山駅の壁画削除事件
4部:文化国家として進む道
芸術家としての尊厳/未来のチェ・ゴウン***に生活費を/幸福な連帯、文化福祉/文化が息づく安らぎの都市/シャフカをかぶる男に再会できるか/私は願う、美しい文化国家を
エピローグ:韓国憲法第9条改正への提言
●あらすじ
著者の2人は、ブラックリスト作成の総本山といえる文化体育観光省に勤務していたが、当時の上司や同僚たちの動揺、無力であるがゆえの苦しみを生々しく描いている。おりしもセウォル号事故以後、朴槿恵政権はますます芸術家たちの活動に神経をとがらせ、統制を強めていた。政府批判の拡大を恐れたためである。反動的とみられる劇作家に圧力をかけ、政府を批判する文化人たちには助成金を与えない、というあからさまな姿勢をとった。ブラックリスト問題の核心は、公のシステムが破綻していること、芸術文化の表現の自由、という憲法上でも当然守れられるべき価値観が損なわれていた、ということだ。著者らは責任者としての立場にはなかったが、実際にブラックリスト問題に関わった自分たちを、反省と謝罪を続けるべき存在であると自戒している。その上で、「文化国家韓国」を目指すために正しく憲法を理解することが必要であるし、憲法は「文化権」(誰もが平等に自由に文化を創造し、文化活動に参加できる権利)を守るために存在している、国は芸術文化を保護し助成するが、文化は国の強制から自由であるべき、と力説している。
●日本でのアピールポイント
ブラックリストに挙げられた有名人としては、ポン・ジュノ、キム・ジウン、パク・チャヌクなどの監督たち、ソン・ガンホ、マ・ドンソク、キム・ヘス、ムン・ソリ、ハ・ジウォンなど有名俳優たちなど枚挙にいとまがない。朴政権下で多くの文化人が金銭的な助成を断たれただけでなく、不法な監視や文化的活動や表現活動の検閲、さらに活動を萎縮させるような統制、差別を受けるなど、多様な締めつけがあった。こうした行為の中心となったのは著者らが属していた機関である文化体育観光省だが、国家情報院****との緊密な協調関係があった。李明博政権時では、前廬武鉉時代の左派と見られる芸術関係者を監査→解任→保守人事にすげ替え、というプロセスをたどったが、朴槿恵政権では芸術文化人全般へと一気に対象が拡げられた。自分を批判する相手に対する恐怖心が大きいほど、より圧力を強める傾向があるというが、セウォル号事件以後の切迫した状況が伝わってくる。自らの行動を深い反省を込めて分析している本書は、わが国にも共通した問題点を投げかけている。名古屋トリエンナーレ問題に見られたように、公的団体による助成と、助成を受ける者の表現の自由は、特にナイーブな関係性にある。日常にある事象を、先んじて敏感に捉える感受性が芸術家の属性であるだけに、「表現の自由」という言葉の重みをあらためて考えさせられる一冊である。
作成:前田田鶴子