親戚の年老いた女たちから物語を聞いて育ったイ・ジュヘ。その物語から、自分自身の新たな物語を紡ぎ出し、6年間かけてつくりあげた短編集が『その猫の名前は長い』(牧野美加/訳、里山社)です。生活環境が異なりながらもいい友情関係を築いていたママ友3人が、新型コロナウィルスが蔓延するなか開いた会食がきっかけでウィルスに感染し、友情にほころびが生じる過程を書いた「わたしたちが坡州に行くといつも天気が悪い」。1991年の学生運動をモチーフにした自伝的小説「水の中を歩く人たち」。長い疎遠のときを経て再び心を通じ合わせるようになった高校時代の親友と、自分の娘の3人で北海道を旅する「その時計は夜のあいだに一度ウインクする」など計9編の短編が収録されています。不条理を甘受せざるを得なかった女性の感情や表情が繊細に表現されていて、私も同じ悔しさ、かなしさを抱いたことがあるなと、どの物語も共感できることの多い短編集です。訳者の牧野美加さんからメッセージをいただきましたのでご紹介します。
本書は、著者イ・ジュヘの初の邦訳となる短編集です。収録されている9篇のキーワードを挙げるとすれば、女性、抑圧、家父長制、連帯、友情、愛などでしょう。主に、女性であるがゆえに経験する抑圧や不条理さ、それに抵抗する彼女たちの連帯が描かれており、なかには、1990年代初めの学生運動を経験した著者の自伝的小説と言えるものもあります。著者は1971年、全羅北道全州の伝統家屋が多く存在する「韓屋村」で生まれ、伝統的な価値観が色濃く残る、いわば「家父長制という囲い」の中で十数年間過ごしました。そのことが著者や本書に大きな影響を与えていると言えます。
著者に影響を与えているものといえばもう一つ、二人の女性詩人、エリザベス・ビショップとアドリエンヌ・リッチの存在は外せません。著者は作家としてデビューする前から翻訳家として活動しており、多数の訳書の中にはアドリエンヌ・リッチのエッセイもあります。また、本書9篇の中にはエリザベス・ビショップの詩に触れているものもあります。二人の詩人について、および本書が二人からどのような影響を受けているかを中心に、文筆家の大阿久佳乃さんが解説を書いてくださいました。本書の理解を深めてくれる必読の内容です。
登場人物たちと境遇は異なっていても、人それぞれ共感できる点はたくさんあるのではないかと思います。複雑な感情を丁寧にすくい取ったイ・ジュヘの作品世界を、ぜひお楽しみください。(牧野美加)
『その猫の名前は長い』(イ・ジュへ/ 著、牧野美加/訳、里山社)