『それぞれのうしろ姿』( アン・ギュチョル/著、桑畑優香/訳、辰巳出版)

「天使が通りすぎるとき」をご存じですか? 楽しくおしゃべりをしているときに、ふと会話が途切れて静寂が訪れる瞬間のことだそうです。現代美術家アン・ギュチョルさんは、創作のための静かな仕事部屋で材料や事物と対話をしていると、天使が通りすぎるときがあり、そんなときに身近な事物からいつもとは全く異なる姿を発見します。その様々な姿を絵とともにエッセイにしたのが『それぞれのうしろ姿』(桑畑優香/訳、辰巳出版)です。木や花、風などの自然、ノコギリやカンナ、鉛筆などの創作道具、コップやうつわなどの身近なものを新たな視点で切り取り、人生や社会の普遍的な大切さを見出して読者に伝えてくれます。訳者あとがきによると、「男女の区別をしない」という著者の意思にならい、本書では「彼」「彼女」を使わずにすべて「その人」とされたそうです。こういった点からも「普遍性」を感じます。一日の終わりの静かな夜にゆっくり読みたいエッセイ集です。訳者の桑畑優香さんからメッセージを頂戴しましたのでご紹介します。

アート好きで知られ、美術館を訪れたときの写真をしばしばSNSに投稿するBTSのRM。
そんな彼が著者のアン・ギュチョル氏の展示会にひょっこり姿を現し、本書にサインを求めたのは、2021年5月のことでした。ほどなくファンのためのオフィシャルコミュニティweverseに「植物の時間」の写真を無言でシェア。ARMYが出処を突き止め、売り上げが一気に250倍に増えた話題の本です。

アン・ギュチョル氏は、インスタレーションを多く手がける現代美術家です。大学卒業後に美術雑誌の記者を経て「民衆美術」のグループに参加。社会に一石を投じる作品を多く制作しながらも、作品の意図を観る人に押し付けるのではなく、何かを考えて意味を発見する余白を与えることが芸術家の役割だと言います。

本書にもアン・ギュチョル流のエッセンスがたっぷり。たとえば「バランスの問題」では2014年に起きたセウォル号沈没事故、「直角の問題」では1990年代半ばに崩壊した三豊百貨店と聖水大橋をほのめかす文章が登場しますが、固有名詞は明記されていません。また、長い冬をじっと耐える草木について書いた「植物の時間」も一見コロナ禍で焦燥する人間たちへの戒めのように思えますが、「コロナ禍以前に書いたもの」と言います。つまり、エッセイを歴史的な事件に結びつけるのも、身近な出来事に重ねるのも読み手次第というわけです。

受け手に自由な解釈を委ねつつ、前向きな気づきを与える。思えばそれはBTSの世界観にも通じるところがあるかもしれません。『Spring Day』ではセウォル号沈没事故を、『Ma City』では光州事件を歌っているといわれながらも、歌詞にははっきり書かないように。RMがあえて無言で「植物の時間」をシェアしたように。

心に浮かぶ結論は人それぞれ。本を読み終えた後、あなたの心のスケッチブックには、どんな絵が描かれているでしょうか。(桑畑優香)

mi-mollet(講談社)に掲載された著者インタビューをこちらで読むことができます。

『それぞれのうしろ姿』( アン・ギュチョル/著、桑畑優香/訳、辰巳出版)