魔人

  時刻は午後八時ごろ。街はすでに夜の帳がおり、色とりどりのネオンサインがきらめいていた。
三清洞を出発した二台の車はたった今、鐘路十字路を過ぎ、南大門へ向かって走っていた。前を行くタクシーには呉相億と恩夢が乗り、任警部と文學洙を乗せた警察車はその後ろを五十メートルほど離れて走るのだった。
「海月は絶対に恩夢を傷つけはしない。でも、恩夢の身辺から一時でも監視の目を怠ってはならない」51NixOmsUrL._SX339_BO1,204,203,200_ 窓の外のネオンサインをじっと見やりながら、任警部は昨夜劉不亂が電話で話した内容を思い起こしてみるのであった。それは実際、任警部にとっては一つの不可思議な論理でしかなかったからだ。恩夢は絶対に安全だ、しかるに恩夢の身辺をしっかり見張れという劉不亂の言葉をどう解釈しなけりゃならないのか、とんと見当もつかないのである。
 そして一方、隣に坐る文學洙はといえば、昨夜劉不亂がよこした手紙を受け取った瞬間から、彼の顔には何やら尋常ならざる深刻な色が浮かびはじめたのだ。
そうすると、文學洙が劉探偵から受け取った手紙には、一体どんな内容が書かれていたのだろう?
 だが、それは追っつけ明らかになる機会がくるものと信じ、ここでは二台の車が明水臺に到着するまでの経路を描くだけに留めよう。
 車は今、本町入口を過ぎ、南大門に向かって走っている。
 しかし二台の車が南大門前まで走ってきたとき、南大門前交差点の信号が停止進行に変わったため、呉相億の乗ったタクシーはかろうじて信号を通過したものの、任警部の車は停止を余儀なくされてしまったのだ。 ほどなく信号が変わったときには、すでに恩夢の乗ったタクシーはセブランス病院の前をゆっくりと走っていた。『魔人』(金来成著 祖田律男訳 論創社)

『魔人』は、韓国で「探偵小説の父」と称される金来成(キム・ネソン)によって1939年に書かれた長編探偵小説です。
世界的に活躍する舞姫朱恩夢(チュ・ウンモン)の誕生日を祝うきらびやかな仮装舞踏会から物語は始まり、怪盗アルセーヌ・ルパンに扮した謎の人物、朱恩夢と歳の離れた大富豪の婚約者をはじめとした様々な登場人物が、読者をぐいぐいと物語に引き込みます。
冒頭で紹介したように、京城の街なみもいたるところに出てきて、まるで自分も当時のソウルにいるような気分で、怪事件を解明していきたくなります。
約500頁という超大作ですが、様々な仕掛けとスピード感ある文章は江戸川乱歩の作品を彷彿させ、あっという間に読める探偵小説です。
次回は、『魔人』の人気ぶりやその理由を、「訳者あとがき」とともに紹介したいと思います。