釜山の文学館<下>金廷漢と李周洪(韓国通信)

10月には小説家の金廷漢の文学館「楽山文学館」を、11月には李周洪(号は向破)の文学館「李周洪文学館」をご紹介しましたが、今月は金廷漢と李周洪についてご紹介します。
金廷漢(キム・ジョンハン/1908~96)は釜山で生まれ、ソウルと日本で送った学生時代を除いて生涯のほとんどを釜山で過ごしました。一方の李周洪(イ・ジュホン/1906~87)は慶尚南道陜川郡で生まれ、ソウル暮らしや日本留学を経て1947年に釜山に居を移します。ともに1900年代生まれで日本での留学経験があり、釜山と縁が深いという共通点のある二人は、生前、厚い親交を結んでいたそうです。地方紙「釜山日報」(2008年11月29日付)に、互いに尊重し合っていた二人の関係がうかがえる記事が掲載されていましたので、一部ご紹介します。
金廷漢の長男は二人の間柄をこう回想しています。「向破(ヒャンパ/李周洪の号)先生はまるで出勤するようにわが家にいらっしゃいました。1954年から62年ごろまで、平日は1、2回、土曜日は毎週。午後4時ごろになるとお見えになって、夜10時ごろまでいらっしゃった。豆腐やスケトウダラなんかをつまみにして酒を日常的に召し上がっていましたね。当時、わが家は3部屋に7人きょうだいが暮らしていたので、私たち家族には意図せず迷惑をかけていたことになりますが。父は向破先生をよく褒めていました。絵も上手だし書道もやるし、持って生まれた才能のある人だと。すると向破先生は父に向かって、君は強情だ、ちょっと柔軟にならないと、などとよくおっしゃっていました」。
共通の知人で小説家の崔海君(チェ・ヘグン)は二人のエピソードをこう語っています。「作品の傾向で言うと楽山(ヨサン/金廷漢の号)は社会性が強く、向破は芸術性が強かったので、二人は仲が悪かったように言われるが、絶対に違う。楽山が1956年に最初の小説集『낙일홍(落日紅)』を出したときも、本人はあまり出す気がなかったのを、向破がなんとか出版させたんだ。表紙も向破が全部デザインした。本を出さなければ永遠に忘れ去られてしまうぞ、と言って出版を勧めたそうだ」。
金廷漢も李周洪も、植民地からの解放を自宅で迎えることはできませんでした。李周洪は治安維持法違反で検挙され監獄で解放を迎え、金廷漢は検挙される直前に知人からの情報を得て、身を潜めているところでした。年を取るほどにますます旺盛な創作意欲を見せていたという点も共通しています。「楽山も60歳になってからたくさん書いた。向破も良い小説はそのころからたくさん書いていた」と評論家のリュ・ジョンリョルは述べています。
1987年、李周洪の訃報に触れた金廷漢は「向破とは約40年の付き合いだ。植民地からの解放直後(1947年)、彼が東莱高校に教師として赴任してきたときからだ。互いの家を訪ねてよく酒を飲んだものだ。一緒に同人誌も出したし、文人協会などの文学団体にも共に会員になっていた」と文書で伝えました。「向破とわたしが、気質は違えども約40年間互いを尊重してきたのは、人間を大切に思うという文学精神が同じだったからだと信じる。わたしは、寒風の吹く水産大学(現・釜慶大学)のキャンパスで開かれた彼の告別式場で、最後まで人間から目を背けなかった彼の奥深い文学精神を称えつつ、哀惜の念に堪えなかった。われわれを脅かすことのないあの世で安らかに休んでほしい」。
楽山文学館と李周洪文学館は毎年、それぞれ二人の名を冠した文学賞を授賞したり、作文や感想文、朗読の大会をおこなったりする文学祝典を開催し、二人の文学精神を称え継承しています。(文・写真/牧野美)

 

 

 

 

 

 

 

 

左:金廷漢 右:李周洪