韓国出版レポート(19-4)「戦後編集者」松本昌次さんのこと

 「戦後編集者」松本昌次さんのこと

                                 舘野 晳(日本出版学会会員)

  戦後日本の出版史を語ろうとすれば、松本昌次の名前を忘れるわけにはいかない。未来社に入社したのが1953年、そして戦後を代表する文学者、思想家、ジャーナリストらの著作物や、社会経済、文学、民話伝説、美術映像、演劇関係書などの編集を担当した。30年間勤務し、1983年に退社して影書房を創業。ここでは民衆文化、無名の生活者、反原爆、沖縄・韓国関係などにも範囲を広げ、雑誌『記録』『辺境』『前夜』の発行にもかかわった。2015年に影書房を退社するが、編集者生活は通算62年に及び、世に送り出した本は約2000点を数えるという。

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 こうした経歴を持つ松本昌次さんが、本年1月15日に亡くなられた(享年91歳)。死が迫ったことを自覚した松本さんは、遺作の準備をされていた。それが没後の3月に刊行された『いま、言わねばー戦後編集者として』(一葉社、2019年、1800円+税)である。

 この遺作のお披露目を兼ねた「松本昌次さんを語る会」が、去る4月6日、東京の文京区民センターで開催された。当日は松本さんを知る老友(平均年齢は70代半ばとおぼしい!)120余名が参集して故人を偲び、各分野から10数名の方々が松本さんとの熱いつながりを語った。

 私も何度か松本さんの謦咳に触れる機会があったので、発言者が話される内容はよく理解することができた。「なるほど、そうだろうな!」と思わせられるエピソードの連続で、また知られざる故人の一面も明らかにされ、故人を「語る会」の名にふさわしい催しだった。

 青年時代の松本さんが、演劇に熱中したことは知られているが、出版編集の世界に入っても、忙しい仕事を縫って読書会、映画会、9条連、文学講座、市民学校などに参加し、サポート役を務めていた。それらの活動内容についても、興味深い報告があった。松本さんは無名の市民たちの歩みに、いつも歩調を合わせようと心がけていたのだ。

 松本さんの携わった仕事となると、どうしても戦後日本を代表する人々の編集者だったことが強く印象づけられるが、こうした地味で目立たない活動もされていたのである。

 遺書の『いま、言わねばー戦後編集者として』では、「レイバーネット」「9条連ニュース」に寄せた文章を中心に、この社会の不条理に対する鋭い批判が、皮肉と諧謔が混じり合った独自の文体で綴られている。タイトルを紹介してみると、「“意見広告”への疑問」「アイヒマンと菅官房長官」「自己批判能力について」「NHK に上がった抵抗の狼煙」「“橋下劇場”は終わっていない」という具合である。

 私もネット上で愛読してきたが、こうして1冊にまとまってから拝見すると、権力者とそれに連なる面々を痛打することに尽力していただけでなく、われわれ自身の無自覚な思い込みや思慮の浅さに対しても、厳しい反省を迫っていたことを知らされる。収録文には新聞記事を題材にしたものが比較的多いが、これなどは、著者から改めて「新聞の読み方」を伝授されるようなものだ。

 現在のような閉塞した時代だけに、『いま、言わなければー戦後編集者として』を心して読み、故人の遺言を深く受け止めていきたい。

未来社時代につくった韓国・朝鮮の本

 亡くなった松本昌次さんは、戦後出版史に残る数々の名著の編集者だった。扱った分野は多岐にわたっている。そのうち、ここでは「韓国・朝鮮関係書」について調べてみた。勤務したのは未来社及び影書房で、1953年から2015年であるが、未来社勤務(1953〜83)の30年間に限定した。厳密にいうと、以下リストアップした本のなかには、松本さんの担当しなかったものもあるだろう。しかし、松本さんは長く編集長だったので、何らかの形で出版に関与したと見なした。(以下では敬称略)

 未来社の初期は「韓国・朝鮮関係」から「韓国」を除いて、「朝鮮関係」とすべきかもしれない。なぜなら主力は「朝鮮」関係だったからだ。この時期を特徴づける二つの出来事があった。

 第1は、朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(1965)の刊行である。著者は当時、朝鮮総連に属し、朝鮮大学校の教員だった。丹念な資料収集と研究、強制連行の当事者から緻密な聞き取りをして構成された本書は、植民地権力の残酷非道さと、今に続く日本政府や当該企業の無責任を鋭く暴き出し、以後の強制連行に関する探訪調査や聞き取りの端緒を開いた。名著の誉れ高く、いまも現役として版を重ねている。

 第2は、『金日成著作集』(同刊行委員会編訳、全7巻、1970〜81)を刊行したことである。この日本語版の翻訳と編集は、総連の刊行委員会が担当し、未来社側は介入する余地はなかった。総連側にしてみれば、日本の出版社から日本語版を出版したことに意味があったのだ。当時、第1副議長だった金炳植から持ち込まれた企画だったという。この出版は経済的に苦しかった未来社を支えるうえでも大きな役割を果たした。

 これに先立ち、未来社は英語版の金日成伝記『KIM IL SUNG』(白峯著、全3巻、69〜70)を刊行しているが、これが朝鮮関係を手がける口火になった。同書の日本語版は雄山閣が刊行した。こうした「功績」が認められたのか、両社の社長が、1970年6月から1か月間、北朝鮮から招待を受け、当時の金日成首相にも面会し、各地を見てまわった。

 続いて翌72年には松本編集長が「日本文化人訪問団」の一員として訪問。さらに73年には、松本編集長が単独招待を受けた。本人は初回の朝鮮訪問記を、PR誌『未来』に10回ほど書いたのが認められただけと謙遜しているが、当時(現在も)自由には行けない北朝鮮を訪問する最高の待遇を受けたのだ。この訪問の記録はのちに『朝鮮の旅』(すずさわ書店、1975)にまとめられている。

 同じ頃には、李升基『ある朝鮮人科学者の手記』(1969)、金炳植『現代朝鮮の基本問題』(1969)、『朝鮮革命博物館(上下)』(同刊行委員会編訳、日本語版1974、英語版1975)を刊行している。さかのぼると。朴慶植・李進煕編『朝鮮歴史年表』(1962、増補版1964)、朝鮮科学院歴史研究所編(朴慶植訳)『朝鮮通史(上)』(1962、下は未刊)もあった。

 70年代初頭までは、韓国に比べて「北」の目覚ましい発展が伝えられていただけに、日本の出版界でも北朝鮮との交流の手がかりを求めていた。それだけに、未来社も今後に期待するところが大きかったに違いない。

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 今後、広がりが予想された北朝鮮関係書だったが、しばらくすると意外にも出版活動は頓挫してしまった。いま未来社の出版目録を確かめると、大物企画は姿を消し、単発物に限られている。強いて「北朝鮮系」のものを挙げると、全浩天の『朝鮮からみた古代日本―古代朝・日関係史』(1989)、『前方後円墳の源流―高句麗の前方後円形積石塚』(1991)、『キトラ古墳とその時代―続・朝鮮からみた古代日本』(2001)の3冊、朴春日『日本文学における朝鮮像』(1969)、韓永大『朝鮮美の探求者たち』(1992)などである。

 そして、これまで手つかずの韓国の政治社会を、批判的視角で描くものが刊行されるようになる。鄭敬謨『岐路に立つ韓国―中間決算(朴射殺)後の行くすえ 』(1980)がそれである。そして朝鮮の歴史を扱った姜在彦『朝鮮の近代思想 日本との比較』(1984)、李春寧『李朝農業技術史』(1989)、コレア研究所編『消された言論、社会篇』『同、政治篇』(1990)が散発的に刊行されているが、かつての勢いは失われてしまった。

 この時期の注目すべき企画は「朝鮮近代史研究双書」(15巻、1985〜97)だろう。『朝鮮民衆と「皇民化」政策』『在朝日本人の社会史』『創氏改名の研究』『日帝下の朝鮮農民運動』など、新進気鋭の研究者が書き下ろした200頁内外の研究叢書である。これらは現在まで、朝鮮の歴史を学ぶ初心者の入門書の役割を果たしている。

 また、いち早く慰安婦問題に注目し問題提起をした鈴木裕子『従軍慰安婦・内鮮結婚』(1992)、『「慰安婦」問題と性暴力』(1993)、『「慰安婦」問題と戦後責任』(1996)が相次いで刊行された。

 さらに、朴慶南『クミヨ(ゆめよ)!―キョンナムさんと語る』(1990)、浅田喬二『日本植民地研究史論』(1990)、滝尾英二『朝鮮ハンセン病史ー日本植民地下の小鹿島 』(2001)、須永光俊ほか編『写真でみる朝鮮半島の農法と農民』(2002)という個性的な書物も刊行された。

 これら未来社のラインアップに、松本編集長がどのように関与したのか、松本昌次・上野 明雄・ 鷲尾 賢也 『わたしの戦後出版史』(トランスビュー、2008)では、「北朝鮮とのかかわりと金泰生」の一章を設け、『金日成著作集』などの刊行前後の事情を率直に語っている。彼は生前、北朝鮮批判をあまり口にしなかったが、それは日本の植民地支配の清算が終わっていないことへの反省と、二度の北朝鮮訪問の印象が強かったからく残ったからだろう。

 その松本編集長が、最も忘れがたい大切な朝鮮人作家として挙げている人物が、金泰生である。五歳で済州島から来日し、苦しい生活と病苦のなか創作に励み、四冊の作品集を残した。未来社からは『私の日本地図』(1978)が唯一の刊行であるが、影書房に移ってからも『旅人(ナグネ)伝説』(1985)が出ている。松本編集長は金泰生の作品や生き方について、様々な場でくり返し語っているが、親しく付き合った相手で、朝鮮人認識の原点になった人物が金泰生だったのだろう。(2019.4.14)