『人物で見る女性独立運動史(인물로 보는 여성독립운동사)』 /李潤玉(イ・ユノク)

フェミニズムがトレンドとなっている韓国では、女性作家の描いた、女性が主人公の小説がよく売れている。
現実社会を見渡しても、元気な女たちが私の周りにたくさんいる。それに比べて、なんだか男たちの影は薄いように思う。もとより不景気の時代には、男たちの元気は半減するものだが。
最近の若い男の子たちの間では、女性に対する「被害者意識」すら芽生えていると聞いて、私は「へええ」と驚いた。韓国男子は兵役があったり家に縛られたりすることを不自由に感じて、自由奔放に生きる女の子たちを妬んでいるらしいのだ。

しかしこんな風潮は、それほど昔からあったわけではない。長く、女は不自由な時代を過ごしてきた。

とくに歴史をひもとけば、私たちが知っている歴史上の人物の大半は男性で、女性の名はほんのわずか。はたして歴史を作ってきたのは、男だけだったのか。いや、そんなはずはない。いつの世も、天下の半分は女ではないか。私たちは教育の中で、男中心の歴史を学び続けてきたのだ。

韓国で「日帝強占期」と呼ばれる植民地の時代に、抗日独立運動を行った女性の名を韓国人に問えば、柳寛順(ユ・グァンスン)一人しか挙げられない人がほとんどだということに気がつく。「独立万歳」を叫んで民衆の先頭に立ち、韓国のジャンヌダルクと呼ばれる柳寛順は、当時満16歳だった。この少女だけが、韓国で唯一の女性独立運動家なのだろうか。いや、決してそんなはずはなかろう。

これまで世間の人々が関心を持たなかった女性独立運動家に注目し、歴史の中に埋もれている足跡を探し求める詩人がいる。李潤玉(イ・ユノク)は女性独立運動家の生涯を謳った『西間島に野の花は咲く』全10巻シリーズや、『女性独立運動家300人、人物事典』などの本を執筆し続けてきた。今年8月には新たに、『人物で見る女性独立運動史』を刊行した。
本書では、1910年代から40年代までの女性独立運動の変遷を年代別に整理し、職業や身分別にどんな活動が行われたか、また中国やロシア、アメリカなど海外での独立運動についても整理している。

独立運動の気運は、従来の儒教式教育ではなく、西欧式の新学問の普及によって高まった。1886年、西洋人宣教師が朝鮮に初めての女学校を建て、リベラルな思想が伝播した。そこで教育を受けた人々がやがて朝鮮各地で教師となり、女学生たちに独立の必要性を説いた。だからこそ少女たちは、「独立万歳」の声を挙げることができたのだ。風に舞った小さな種子が次々と、遠くまで飛んでいって花を咲かせるように。

1919年2月8日、東京の朝鮮基督教青年会館(現在の水道橋、在日本韓国YMCA)に約40人の学生が集まって、2.8独立宣言を発表した。日本に留学中だった黄エスター、金マリアら数人の女学生も、そこに参加していた。黄はその後、秘密裏に帰国し、故国で3.1独立運動に加わった。

ソウルで3月1日に湧き起った独立万歳の声は各地に波及し、地方では3月下旬から4月にかけて運動が盛り上がった。朝鮮全土で女子学生約1万人が参加し、捕らえられ起訴された9411名のうち、587名が女子だった。
柳寛順が収監された西大門刑務所だけでも、10代の少女は59名いた。そのうち29名は、後に独立有功者として国から追叙された(2021年3月末現在)。

李は、国史編纂委員会が所蔵する日帝時代の西大門刑務所に収監された者のカード6264枚をすべて調査し、その事実を確認して、本書に発表した。
「これまでの独立運動史は事件中心に記述されてきたため、女性の名前はほとんど登場しなかった。人物を中心とした女性による独立運動の流れをまとめることは、切実な問題だった」と、李は語る。

1913年に平壌で結成された初めての女性独立運動団体である「松竹決死隊」では、聖書を入れる小さな鞄やはんこ入れ、子供用の帽子や靴下、襟巻やセーターなどを作って売り、独立運動のための資金とした。
それはまさに、命がけの行動だ。日本の警察に捕まれば、凄惨な拷問が待っていた。特に女学生に対する裸体拷問は、舌を噛んで死にたいほどの恥辱だったという。
李は朴殷植(パク・ウンシク)の書いた『韓国独立運動之血史』から、女性への拷問についての部分を引いた。

p132 平壌で逮捕収監された女学生に対し、日帝は熱した鉄棒で陰部を焼き、何人の男を抱いたのかと追及した。収監され釈放された者の証言によると、日本人は韓国女性に対して通常、以下のような蛮行を行っていた。

頭の毛を縛り、足の親指がやっとつくほどの高さに吊るした。一日一度は裸にして、憲兵が1時間ほど鞭打った。訊問の際は必ず裸にした。判決を受けるのは常に、強姦暴行を受けた後だった。警察署に連れてこられた女学生は、まず日本の巡査が強姦し、「おまえは処女か、貞女か」と問い詰め、答えなければ腹を殴った。裸にして寝かせ、脇の下の毛や陰毛を剥いだ。

独立運動を行った夫や親兄弟を殺されたことをきっかけに、抗日の道を歩む女性もいた。「銃後の守り」だけではない。国境を越えて資金や秘密文書を運搬したり、役所に爆弾を投じた者もいた。生後間もない赤子を残して収監された母もいた。寒さと飢えで、赤子は死んだという。

1920年代には共産主義思想の伝播により、階級闘争や世界との連帯が謳われるようになり、1930年代には労働運動へと発展していく。
『滞空女 屋根の上のモダンガール』という小説のモデルとなった姜周龍(カン・ジュリョン)も、この時期に平壌で労働争議を行った女性だ。

もどかしさが募るのは、女性独立運動家に対する韓国政府の対応の遅れだ。先の柳寛順が1962年に「独立賞」を追叙されたのは例外的で、それ以外の多くが2000年以降に追叙されているし、未だ追叙の行われない者も数多く残っている。
たとえば独立運動に加わった妓生たち。「義妓」と呼ばれたそうで、壬申倭乱のときに日本の武将を抱いて川に飛び込んだ論介(ノンゲ)を彷彿させるが、その追叙は一人が2009年、もう一人が2010年に行われた。
済州島の海女たちも日本による不当な搾取に声を挙げ、1000名が団結して警官隊を襲撃した。この闘争を率いた夫春花(ブ・チュナ)は、すべての責任を一身に負って収監・釈放の後、大阪に逃げ、解放後に故郷に戻った。しかし1995年に亡くなるまで国からの褒章はなく、死後の2003年にようやく追叙された。

今年8月の光復節に遺骨が韓国に「帰還」した洪範図(ホン・ボムド)将軍は、1962年に「大統領賞」を追叙されたが、彼の妻だった丹陽李氏(名は不詳、1874~1908)と息子は、ようやく2021年3月1日に独立有功者として追叙されている。

「独立運動家の妻たちはこれまで、透明人間のように扱われてきた」と李は言う。その現実に棹差すために、李の孤独な仕事は続く。
膨大な記録を読み解き、その中から女性の名前を拾い出し、痕跡をたどることは、気の遠くなるほど根気のいる作業だ。しかしそのおかげで、私たちは過ぎた時代の真相を垣間見ることができる。知らせる人の役割を担う李の言葉は、冷静ではいられない。

p225 (安敬信が1920年)8月3日夜9時50分ごろ、平安南道庁に投げた爆弾は、すぐ隣の警察署の建物を破壊し、日本の警官2名を処断する快挙を成し遂げ、女流闘士としての名を広く知らしめた。安志士は1921年3月に日警に捕まり死刑宣告を受けたが、この消息を聞いた上海臨時政府は、金九らが嘆願書と釈放建議文を送り、懲役10年に減刑された。

どこからの援助もなしに、ひたすら女性独立運動家の調査を続ける李潤玉こそ、まさに現代の独立運動家に他ならない。そして李潤玉は、私の大切な友人だ。

 

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戸田郁子(とだ・いくこ)

韓国在住の作家・翻訳家。仁川の旧日本租界地に建てられた日本式の木造町屋を再生し「仁川官洞ギャラリー」(http://www.gwandong.co.kr/)を開く。「図書出版土香(トヒャン)」を営み、口承されてきた韓国の民謡を伽倻琴演奏用の楽譜として整理した『ソリの道をさがして』シリーズ、写真集『延辺文化大革命』、資料集『モダン仁川』『80年前の修学旅行』など、文化や歴史に関わる本作りを行っている。
朝日新聞GLOBE「ソウルの書店から」コラムの連載は10年目。著書に『中国朝鮮族を生きる 旧満洲の記憶』(岩波書店)、『悩ましくて愛しいハングル』(講談社+α文庫)、『ふだん着のソウル案内』(晶文社)、翻訳書に『黒山』(金薫箸、クオン)『世界最強の囲碁棋士、曺薫鉉の考え方』(アルク)など多数がある。